伊東マンショ研究資料

以下の文書は、伊東マンショ研究会・高崎隆男(故人)さんのご遺族の承認を得て公開しております。


天正遣欧少年使節主席正使・伊東マンショ

飫肥城と伊東マンショ

偽装の墓所と偽証の少年木像

プロフィール


1926年(大正15年)3月1日生、日南市油津小学校・宮崎商業学校卒、松下電器産業KK勤務のかたわら関西大学専門部二部(夜間)法科通学、終戦で帰郷中退。 油津港運株式会社・油津町立(日南市立)公民館勤務ののち衣料洋品小売店を開業後、KK旅館みよしを買収・旅館日南子(ひなご)に改称したあと、KKタカサキに変更して営業中。

「伊東マンショの墓所について」を日本歴史学会編『日本歴史』に、続稿「伊東マンショ“流浪の孤児”説批判―マンショ侍臣としての刀匠・国広―」を上智学院内キリシタン文化研究会『会報』に発表。西日本新聞社・福岡天神文化サークル主催・宮崎県共催『九州沖縄ふるさと探求講座1日大学福岡塾』第三弾【みやざきを学ぶ】講座で「伊東マンショ栄光の遺影」を講義。

伊東マンショ研究会・高崎隆男(故人)

〒887-0014 宮崎県日南市岩崎2-4-7 FAX0987-22-2634

母の墓が藩主墓地に現存


『少年使節で有名な伊東マンショの母・まちのうえ町上の墓が、殿様(旧・お飫び肥藩主・伊東家)の墓地にある』と聞いた私は、「ええっ!」とわが耳をうたがった。

 郷土史に興味がなかったせいか、元・飫肥町長の山之城民平氏が、町上の墓について昭和6年に発表していたことはもちろん、マンショの少年木像の所在が判明 したころの昭和24年、宮崎県議会は欧米観光客の誘致を目的として、「伊東満所顕彰記念館」建設を決議し、県内選出の国会議員全員と大手企業代表も、委員 に名をつらねた本が出版されたこと、および、その建設計画が立ち消えになったことも知らず、昭和3 9年(1964)に、飫肥中(現日南高校)卒の友人・飫肥商店会長の井上伝一郎氏から聞くまで、まつたく知らなかったからである。しかし、歴史教材で見た少年マンショの英姿は、あざやかに記憶にあったので尋ねたところ、『町上は、初代藩主の腹ちがいの姉の一人で、一族の一人に嫁してマンショらをもうけた』とのこと。

 『家臣に嫁した町上の墓が、藩主墓地にある』ことを不思議に思った私は、マンショが特別の待遇を受けて、藩主墓地に葬られているのではないか、と考えて尋ねたが、『マンショの墓は、どこにも無い』とのことである。 『無い』とされていても、それは禁教令のためであって、「母・町上の墓の現存は、マンショが葬られていることを暗示している」、と私は思った。 そのころ、木造船材の飫肥杉と漁業の衰退で過疎化がすすみ、購買力の流失と大型店の進出もはじまり、商店街の死活が話題になり、観光資源開発の講演会が開かれるなど、過疎対策が模索されはじめていたので、町上の墓は、秘められた史跡として、観光に役立つと考えた。

 『伊東マンショとは、母からも捨てられて、孤児同様の身で府内(大分市)のまちをさまよっていた少年であった』との 「マンショ流浪の孤児」説が、広く信じられているが、わが子を棄てて男に走ったという女が、藩主墓地に葬られることは絶対にありえないと考えたので、「マ ンショ流浪の孤児」説にも疑問が生じ、関係書籍などを調べたところ、概略つぎのことが記されている。

 「日本人初の遣欧使節として、数え年13歳の伊東マンショを主席正使とする4人の少年は、織田信長が献上する安土の屏風絵をローマ教皇にとどけるため、生還の見込みも乏しい大航海時代の1582年2月20日 (天正10年1月28日)、長崎の港を船出した。 使節らは苦難と危険にみちた大航海で喜望峰をまわり、2年半後の1584年7月6日リスボンに到着、世界最強国のフェリーベ二世をはじめ、各地で史上空前 絶後の大歓迎をうけて、教皇グレゴリオ13世に謁見し、屏風絵をとどけたあと、新教皇シスト五世に謁見、ローマ市民権を与えられて、ヨーロッパ滞在1ヶ年 半後の1586年2月末、リスボンを出港して帰路につき、1588年6月19日マカオに着いたが、関白秀吉による禁教のため、帰国の入国許可を待って、1590年7月28日、8年半ぶりに帰朝した。 使節らがもたらした先進ヨーロッパの文明機器は、わが国に少なからぬ進歩をもたらし、翌1591年(天正19年閏1月8日)に謁見した使節らは、関白から高禄での仕官をのぞまれたが丁重に辞退した。 ところで、マンショは1612年に病死したが、1614年に家康がはじめた禁教弾圧によって、マンショの墓もこわされ、遺骸は墓石とともに海に向けて捨てられた、という。 正使の一人・千々石ミゲルは棄教したが迫害された上で殺され、原マルチノは国外に追放され、中浦ジュリアンは逆さ吊りで刑死した」とのこと。 従って、他の使節三人の末期と同じく、マンショも暗い末期と思われている。

 町上の墓を耳にしてから3年後の昭和42年、日南郷土史趣味の会の初会合のとき、旧・飫肥藩主伊東家の執事・深水浩之氏から藩主墓地で説明があり、マンショの母・町上の墓も指し示された。町上の墓のかたわらに、台石のない小さな墓が並んでいるので私は凝視したが、その墓の説明はなく、終った。 その小さな墓は、町上の上座にあって初代藩主に近く位置するので、マンショの偽装された墓に違いない、と私は直感した。 マンショの墓であれば、禁教史上の貴重な歴史遺産であるが、偽装された墓が他にあるだろうか、日本・世界に無いなら、いちやく脚光をあびて、史跡観光に役立つと考えた私は、郷土史家として名がある友人に共同研究をもちかけたが、『史料がない』ことを理由に断られた。

隠蔽秘匿された伊東マンショ


『ない』とされる史料は、禁教弾圧・廃絶をおそれた歴代の家老と、その後の差別を警戒した執事とが極秘にし、隠していると考えた私は、執事の深水氏と親交があるのをたのみに、素人ながら取り組むことを決意した。 深水氏は、飫肥藩史の第一人者で日南市文化財保存調査委員会の副会長だったので、たずねたところ、厳しい顔と口調に一変して、『なに─、伊東マンショ、伊東マンショとは、飫肥藩・伊東の者にあらず、たぶん、それはー、豊後大分の大友家の者のことだろう』とのこと。 その数年前から私は、深水氏に居酒屋にさそわれることが多く、酒間で繰りかえされる飫肥藩の史話を、ありがたく辛抱づよく拝聴していたので、好機とみて尋ねたのである。 ところが、戦後の自由な時代になって久しいにもかかわらず、隠し通される主家への忠誠心に驚き、改めてさらに長期を覚悟して、真実が明かされるときを待つしかなかった。

二兎を追う


当時の私は、不治の慢性肝炎が奇跡的に急回復して、疲れ知らずの健康体になっていたので、至難な問題にも臆せず取り組む気概があった。 しかし、がん家系のため、果たして生きているうちに解明できるのか、深刻な不安があった。すなわち、父が肺がん死して4ヶ月後、5つ違いで当年31歳の妹が、「たちの悪い悪性肉腫で肺への転移もあり、余命3ヶ月なし」と診断されたことを聞いたとき、がんは一挙に私の恐怖になって、まわりが急に薄暗くなり、悪寒に襲われた。 妹の問題ではなく、私自身の問題として、万がひとつの僥倖をいのって、義弟と共に、私の体験療法を試みたところ、1年余後ついに妹は退院した。 肝炎のみでなく、がんでも奇跡をうんだのは、なにか、その解明は、かくされたマンショの史実解明のためにも必要な、私の最大の課題であった。 以上の、二つの課題解明のために、二兎を追うことになったが、医療や栄養学はもちろん、歴史にも郷土史にも縁がなかった私は、健康と自営を利して旅館の夜警のみを仕事にし、1日24時間を最大限に活用して、解明に専念した。

明かされた飫肥藩極秘の『口伝』


深水氏が、日南市文化財保存調査委員会々長になられたことと、伊東家執事を辞められたこととが幸いして、ついに昭和48年1973年、『飫肥藩の史料は、藩主・伊東家のみのものではなく、飫肥藩全体のもの』と口にされるようになり、『高崎の先祖も下向の衆(6代祐持に従って伊豆から日向に下った家来たち)だから良かろう』と、極秘の口伝を次のように明かされた。 『町上は、届けられたマンショの遺骨を日夜まつっていたが、死にのぞんで「それらのものを、いっしょに葬ってもらいたい」と遺言したので、マンショは町上 と「いっしょに葬られている」』とのこと。「いっしょ」とは、町上と一つの墓の一所ではなく、同時にの意味の一緒に、である。 ま た深水氏は、『円南寺にあるマンショの少年木像は、長持寺(飫肥藩伊東家三大寺の一つ・寺禄100石)にまつられていたが、禁教がきびしくなったので、宮 崎平野と日向灘が一望できる山の上にあって、見張所をかねていた長持寺末寺の円南寺にかくし、伊東家の信任厚い隠居坊主によってまつりつづけられてきた。 当時は、円南寺から飫肥城に早馬で注進できるかくし道があったが、そのかくし道を知るものは、代々その任についた世襲の者のみであった。 マンショの木像を納めた厨子は黒く塗りつぶされて、木炭を運ぶかのように炭俵にいれ、馬の背に乗せて隠し道を通って円南寺に運び上げた、と伝えられている』とのこと。 執事をやめて間もない深水氏から円南寺に案内して頂いたとき、殿様代理のご来訪と思った住職は、木像の調査を快諾され、出かけられた。 同行の倉岡良幸君と3人で、金色の大きな藩主紋も黒く塗りつぶされた厨子の扉を開き、少年木像をとりだして、内部まで余すところなく調べたが、なにもはいっていなかった。 木像は、伊東一族のもっこ木瓜の紋章が配置されている袴姿で、その袴の背部の腰板に描かれている藩主紋に気づかれた深水氏が、『マンショは藩主と同格じゃったむんじゃが(だったようだ、の地言葉・方言)』と、つぶやかれた。 執事だった深水氏ならでは、だれも気づかなかった紋章であるが、そのつぶやきを私は聞きのがさず質問したところ、『藩主に準ずる待遇じゃろ』と修正された。(のちに『藩主と同格』だったことが判明した)

少年木像と円南寺


その夜、思わぬ大歓待をうけた席での、円南寺住職・長友武明氏の話によれば、『円南寺は、砦を兼ねた真言宗の寺として、750年前に創建された日向7堂伽藍の一つで、斟鉢山の東の観音平の茶屋・かねぞう小屋の東にあって、霊鷲山円南寺と言っていたが、万治元年(1658年)に、幕府が推奨した曹洞宗(禅宗)にかわった。 飫肥城への隠し道には、炭焼き小屋があって、早馬で注進する者のほかは隠し道がわからず、山仮屋街道に迷い出るようになっていた。 その後、寺はふもとの平地にうつり、さらに現在地にうつされて、現在に至っているが、山の上・ふもと・現在地での3度の火災で、少年木像はまっさきに運び出されたので、現存している。 木像は、ローマに旅立つマンショを写生したものを、母・町上が彫らせたものと伝えられている。 木像の中には、いおり庵もっこ木瓜の紋(藩主の紋章)がはいった9寸5分の守り刀と巻物が入っていたが、廃仏毀釈で生活に困った前々代の住職が、飲食物のカタに渡した。 その後、転々として戦後になってから、宮崎の裁判所の近くにあることを聞いて、寺の総代が行って交渉したが、終戦から間もないとき20万円もの大金を要求されたので、買い取れなかった、と言うことです。いま、探しているが、どこにあるか所在がわからない。 むかしは、「扉をあけて中の木像を見たら目がつぶれる」とおそれられてきたが、いまでは「航海のまもり神・勉学の神」として、お参りが多い』とのことだった。

地元紙に発表


以上の、伊東家執事と円南寺とにのこされていた口伝と、門外不出の伊東家史料をもとにした拙文を、地元の日刊紙・日南新聞と南宮崎新聞とに投稿したところ、宮崎日日新聞に墓に関する拙文が記事になった。 また、読売新聞の地方版には、『あった!マンショの墓』と、大きな見出しがつけられ、拙論の要旨が報道された。 とくに南宮崎新聞からは、連載文を依頼されたので、かなり詳細に記した拙論を寄稿した。

波紋


県議の北川氏(のちの日南市長)の勧めで県教育委員会文化課に行ったとき、柳宏吉先生(初代宮崎県総合博物館々長・文化功労賞受賞者)から拙稿を見ていただいた。その後、手をとっての懇切な御指導をいただいたおかげで、拙稿が望外にも日本歴史学会編『日本歴史』昭和58年12月号に収録された。 その発表が契機となって、飫肥藩秘匿の『錦袋録』が判明、刀剣学の権威・福永醉劔先生からも懇切な教えを頂き、再び柳先生の御指導によって、続稿が上智学院内キリシタン文化研究会『会報』昭和62年第1集に発表された。 昭和58年のはじめ(2月か3月)、飫肥中(現日南高校)出の友人・初鹿野信二氏と日南市役所玄関前で出会ったとき、拙文に『賛同』とのことから、飫肥で知られていたキリシタン紋に話しが進んだあと、旧・飫肥藩領内に、数多あると予想されるキリシタン遺物について、調査を担当していただくことになった。 初鹿野氏は、早速『波紋』と題して地元紙に投稿するかたわら、キリシタン遺物研究会を立ち上げ、一時は80人からの会員を擁して探訪が実施された。 会員の中の大野光与・武田幸雄・金井一光・鈴木常盤・村川勝也氏等によって、探索と調査が熱烈にくまなく実施されたので、多くの発見があった。 また、南九州大学造園学部の春口勝弥名誉教授と数人の講師らによる『日南地方に於ける切支丹灯篭に関する調査報告書』が、日南市に提出された。 やがて、全国かくれキリシタン研究会を創設された斯界の権威・松田重雄先生が来訪されたが、遺物の多さに驚かれて「かくれキリシタンの聖地」と評され、第2回全国かくれキリシタン研究大会が、日南で平成2年に開催された。 平成4年、川越光明日南市長によって、日南駅前広場に伊東マンショのブロンズ像が建立された。以上は「波紋」の成果と言えよう。 平成10年になって、ついに「ハート入り異形藩主紋」が発見された。その遺物は、マンシヨが藩主墓地に葬られたことを裏付ける史料である。 その発見のあと、1601年に建てられた初代藩主・すけたけ祐兵の菩提寺・報恩寺(現・いおし五百?神社)の藩主紋にあるハートが発見されたので、歴代の藩主と奥方の墓にあるハート紋様、および城下の建物にあるハート紋様の由来が判明した。 奥方の居城・松尾と城壁の復元で、城壁に設けられた数多の藩主紋の両側にあるハートの由来解説は、史跡観光客に驚嘆され、歓迎されよう。

『マンショの像ではない』との批判について


マンショの立像は、両手を前に差し出したキリシタン礼拝の姿であるが、15代義祐の嫡子・歓虎丸(夭逝)の像とする二つの古文書がある。 その古文書によって、拙文発表後も『マンショの像ではなく、歓虎丸の像』と批判する人がいる。 その一つは、北郷町立図書館(宮崎県南那珂郡・旧飫肥藩領内)に寄託中の稲田家蔵古文書で、『義祐公御寵愛ノ嫡子歓虎丸天文十七年御逝去、一寺ヲ建立号有リ幻真寺、彼御影像ヲ彼寺ニ安置ス』と記されている。 歓虎丸は、戒名録に「幻真童子・幻真寺」と記されていて、円光院殿(次弟の16代・義益)墓地(西都市都於郡)の巨大な義益の墓石と並んで、高さ1.1メートルの幻真童子大禅定門と彫った五輪塔の墓がある。 これが歓虎丸の実墳で、寺は実墳のあるところに建てられるので、宮崎市加江田の円南寺とは無縁であるにも拘らず、あえて『彼御影像』と『彼寺』とを連ねて、円南寺にあるマンショの木像を、歓虎丸の像としているのである。 もう一つは、清武町(宮崎郡・旧飫肥藩領内)に寄託中の禿家蔵古文書で、『円南寺大檀那性山幻真大禅童子、歓虎丸ノコトナリ、三位公(15代義祐)憤リ以テ眉間ヲ切ル、横山小八郎之ヲ抱キ加江田村円南寺ノ麓迄逃ル。其地ニ落命アリ天文十七年六月十日(1548年だから450年前)九歳ナリ、良寛(小八郎ノコトナラン)悲嘆遣ル方ナク、ココニ鷲尾山玄真寺トテ一寺建立、若君ノ御影ヲ木像ニ刻シ一寺ヲ奉右ノ次第ヲ書留ム、先祖・横山小八郎、清武黒坂・長友忠右衛門、所持』とある。 すなわち、三位公義祐が、嫡子の『幻真童子・歓虎丸』の『眉間ヲ切ル』とあるが、義祐は、歓虎丸の夭逝で哀傷のあまり剃髪し入道になったほどで、わが子の眉間を切ったのは、義祐の父・ただ尹すけ祐(12代)である。 尹祐は、正室に虎乗丸(13代祐充)が誕生したため、別腹の子(14歳)が目障りになって切りつけ、眉間を切られて逃げるわが子を、小姓に斬殺させた(『日向記』・『日向纂記』所収)が、それを奇禍として大胆に援用したものである。 以上は、マンショの木像をまもるために用意された古文書であるが、飫肥藩の隠蔽・秘匿の周到な工作が理解できる。

周到な用心・『霞屋妙春』を娘に工作


藩主と同格の待遇を受けていたマンショは、藩主墓地に喬墳が設けられたが、墓に至るまでの破壊命令のため、悲痛な思いの信者たちによって墓石が除かれた。 12年後に亡くなった母・町上の遺言によって、町上に届けられ祀り続けられたマンショの遺骨は、母の埋葬と同時にマンショの墓所址に埋葬されたのである。 その墓所に、弾圧の「雨の下・仮の屋」を暗示し、女性に偽装した『霞屋妙春禅定尼』の墓石が建てられた。それは、弟・ジュスト勝左衛門の死から1年後の墓建立の5月(戒名録では11月)から間もない慶安三年正月十日である。 その墓石は、マンショの少年木像とほぼ同じ高さであるが、万一にそなえた周到な用心から、町上の娘・虎松の墓と偽証するための工作がされている。 虎松(ジュリード)は、マンショの姉で、いとこの祐勝(ゼロニモ)室であるが、系図にも戒名録にも記されていない。祐勝の墓は、兄の17代当主・よし義かた賢(バルトロメウ)と並んで、長持寺址墓地の奥まった正面にある。しかし、義賢室・月山妙秋大姉(元和5年9月18日没)と、祐勝室・虎松の墓はどこにもない。 祐勝の死は戒名録では文禄2年6月11日で、戒名は雪庵幻積大禅定門であるが、墓石には戒名の大の字がない禅定門で、慶長2年極月晦日と墨書されているのみであることから、建て替えられたことが判る。 その祐勝の禅定と、霞屋妙春禅定尼の禅定とが一致することから、霞屋妙春を町上の娘・虎松と解した郷土史家がいたほどの、偽証工作である。 また、義賢と祐勝の墓石の高さは約165センチで、義賢室と祐勝室の墓は、町上と町上の妹・伊東新二郎妻の墓と同じ高さの130センチであったため、霞屋 妙春の墓の高さ87センチとの違いがあり、かつ伊東家の婦人には、すべて大姉号がつけられているので、2人の室の墓は消滅されたものと解される。

以上、偽装・偽証してまで墓や木像をのこしたのは何故か、信仰のみでは説明できないので、吉宗の江戸地開拓より130年も前の、飫肥藩禄高4割以上の急増が注目されるが、不明とされる日本農業革新史とも関係がありそうである。 長い歳月を要したが、二兎を追った研究が共に完了できたことは、「マンショの霊の助けか」と感銘しつつ、いまは亡き方々をはじめ、支援していただいた各位に謝意を表し、追って拙論をまとめ、出版予定であることを付記したい。